満足とは留まること

目的を達したとき、人は満足し自分や自分の周囲を見まわす余裕ができる。もはやがつがつしないですむ。おしゃれもしたくなる。おいしいものも食べる気になる。花見にもいってみようと思う。だが、がつがつしていたら、こうはならない。余裕があったとき、初めてこの世を楽しもうという気になる。この楽しもうと思う心が雅なのだ。雅とは余裕の心のことだ。
(中略)
目的に達した人が、かならずしも花を楽しみ、雅であるわけにゆかないからだ。目的に達しても、またすぐ次の目的ができる。たとえばある在地領主が一番荘を手に入れる。すると、二番荘が欲しくなる。そしてそれが目的となる。そこで二番荘を手に入れる。こんどは三番荘が目的となる。こうしてつねに目的に向かって息せき切って走っていて、決して満足するときがない。満足とは留まることだ。自分の居場所に気づくことだ。この世を楽しむには、まず留まることが必要なのだ。矢を射るとき、的に当てることだけを考える人は、目的を追う人だ。だが、矢を射ることそのことが好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても嬉しい人、そういう人こそが、留まる人、つまり雅である人だ。
〜辻邦夫『西行花伝』「二の帖」62頁