自閉症裁判

6:07起床。朝食は、トースト、レトルトのソーキ汁、コーヒー。
今日は金沢出張のため、直接JR大阪駅へ。初サンダーバード
9:42発サンダーバード11号で金沢へ。新大阪、京都、福井、芦原温泉加賀温泉を経て
12:15金沢着。途中湖北あたりからずっと雪景色。金沢市内は積雪はほとんどなかった。
駅ビルの中の金沢百番街のとんかつや「わくら」でロースカツ丼。
13:30某社でシステムのデモとヒアリング。当初こちらが思っていた内容とは異なった絵を描いているような感じ。少し提案には苦労するかも。。。
16:02発サンダーバード36号で帰途につく。途中手取川風速計が規定値をオーバーしたとかで運転を30分近く見合わせる。先日の羽越線での事故が頭をよぎる。しばらく徐行運転が続く。結局大阪に着いたのは予定より1時間遅れ。
西田辺の王将で、天津飯と焼きそばと鳥唐のセット。
サンダーバード車内でじっくりと佐藤幹夫自閉症裁判』の続き。印象に残った箇所をメモ。

おくれをもつ子どもたちはまだこのように観念の世界を自在にゆききすることができません。そういう世界の獲得に遅れている子たちですから、頭のなかで観念的な世界を享受するのはまだ困難で、直接目の前にする実体の世界しかじゅうぶんに体験できないのです。(略)この子たちは観念の世界を移動するかわりに実際に身体を移動させねばなりません。それがこの子たちの世界とのかかわり方、世界の享受のしかたなのです。

「他の施設や作業所で面倒を見切れなくなった人間がうちに来る。口じゃなくて、手を動かせ。他の作業所ではそう教える。学校もそうだ。しかしうちはそうじゃない。どれだけ口を動かすか、だ。どれだけ新聞を読んで、テレビのニュースを見て中身を理解させ、どれだけ世の中の出来事をわかってもらうか。世の中との折り合いというのは、そこからしかつかない。単純作業がこの人たちは得意だ、飽きずにやる、と他の施設の職員は言う。ほんとうにそうか。そんな人間がいるか」

「自閉性の障害」への理解なしには、この事件に迫ることはできないと考える。自閉性の障害をもつから凶悪な犯行となった、と言いたいのではない。この事件の犯行の外形や動機といったものを考えるとき、障害の特徴への理解が欠かせないと言いたいのである。
男の「理屈」は私たちの目から見れば不合理であり、その行動はたしかに「異様」であった。しかしそこには「男なりの論理」がある。それをどこまで私たちが理解しようとするのか。ただただ不合理であり異様であるとのみ解し、「凶悪犯・通り魔犯」のレッテルを貼り付けてよしとするのか。ここに大きな岐路がある。こうした私の物言いは、障害ゆえに刑の軽減を、情状酌量を、と聞こえてしまうかもしれないが、けっしてそうではない。人としての「罪と罰」を求めればこそ、障害への理解が不可欠となるのであり、それなくして責任も贖罪も十全たるものとはならないのではないか。ほんとうの意味での再犯の防止とはならないのではないか。それが私の述べたいことのすべてなのである。

日本の刑事手続きの基本的な問題は、謝罪追求型の取り調べである。あるいは懺悔を求める取調べであるということです。

取調べがビデオ収録などによって可視化されること、テープ採録されること、取調べ段階において弁護人もしくは、事情をよく知る福祉関係者などの立会いを認めること。出所後の福祉支援を制度化すること。このどれかひとつだけでも果たされるなら、事態は変わるだろう。

被害者の叔父さんの言葉。

Mちゃんは地雷を踏んでしまったんだと私は思う。これは事故ではないし、まして、運命でもないし、運命だったとも思いたくない。地雷さえそこになければ防げたことだった。私はそう思っている。本物の地雷がそこにあったら、どうする」
(略)
「地雷だったら、撤去する。撤去して抹消するよな」
(略)
「(略)東京という砂漠のあちこちに地雷があって、Mちゃんは運悪くそのひとつを踏んでしまった。(略)地雷は撤去して抹消するのが世の中のためだ、私はそう思う」

最後に。

この男にいま与えられている生は、O.Mさんと妹と言う二人の女性の、これ以上のない犠牲の上に成り立っている。そのことがなぜ理解できないのか。福祉がどうした司法がどうした、という以前の問題ではないか。そんな気さえしてくる。

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自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

23:30就寝。